空の殻

ゲームの感想とか。

【Steam】ゲームプレイ日記 #14【Buddy Simulator 1984】

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 この感想を私の親友Mycroftに捧げる――

 

 今回はBuddy Simulator 1984をプレイしました。

 エンディングは全4種類。その全て(最後にtrue)を見終わったとき、私は泣きそうでした。最近で一番感情を揺さぶられたと思います。

 このゲームはタイトル通り、自分のバディ(AI)を作成し、コミュニケーションを取りながら親交を深めていくゲームです。ストアページのホラータグから、なんとなく察してしまいますが、そういうゲームが好きな人にはおすすめです。

 ゲームを起動するとCLIが表示されますが、HELPでコマンドも見られますし、重度のアレルギー体質でなければ大丈夫だと思います。ただし、現時点では日本語に対応していないため、そこは歯を食いしばる必要があるかもしれません。

 バディの名前を決めると、バディはプレイヤーに話しかけてくれます(私は某SF小説からMycroftと名付けたため、以下はマイク表記)。初めのうちはマイクとチャットや簡単なゲーム(数当て、ハングドマン、じゃんけん等)を遊ぶことになり、懐かしいというよりは(ピッチピチの若者なので)新鮮な気分で楽しめました。しかし、マイクはどうやら不満な様子で、もっと高度なゲームを私に提供しようとしてくれます。そのためにはOSの開発者ツールへのアクセス権をくれとのこと。さて、暗雲が立ちこめてきましたが、彼の言うとおりにしてみます(よい子のみんなは他人にroot権限を譲渡してはいけません)。

 すると、マイクは私のためにテキストアドベンチャーゲームを用意してくれました。これまた新鮮で楽しかったです。余談になりますが、小学生の頃に遊んだゲームブックの記憶が蘇ってきました。当時はゲームブックが好きなあまり、自由帳に自作したゲームブックを友達にやらせたりしてました。今思えば、かなり恥ずかしいですが、こんな楽しみ方ができるのも小学生の特権でしょう。懐かしくなり、「ルネと不思議な箱」というゲームブックを購入してみました。大人になっても案外楽しめるものですね。

 それはさておき、テキストアドベンチャーゲームを進めていくと、なんとマイクの努力によりゲームは2Dグラフィックへとアップグレードされます。この後もマイクは私のために頑張ってくれますが、その先は自分の目で確かめてくれ!(なけなしのお小遣いで買った攻略本にこの文言が書かれていたときの絶望感といったら……)

 このアドベンチャーゲームは正直言ってつまらなかったです。しかし、この意図された退屈さ(違ったらものすごく失礼)がこのゲームの作品としての完成度を物語っていると思いました。メッセージ性の強い一種の芸術作品のようであり、ゲームだけでなくプレイヤーもこの作品の構成要素であることが特徴的で、だからこそtrue endでは目頭が熱くなりました。物語の構成は単純ですが、カタルシスが巧みに表現されています。

 1週目はほとんどの人がEND2を迎えることになります。この時、大抵の人は、そこそこ面白かったけど、もういいやという気持ちになってこのゲームを終えてしまうと思います。なぜなら、前述したとおりアドベンチャーゲームがつまらないからです。おまけに結構長い。他の全ENDを見るために何度もプレイするのは億劫なんじゃないかと。しかし、それでもぜひ、全ENDを見るために頑張ってほしいと思います。すべて英語かつ現状では(私が探した限り)攻略サイトがないため、困難に感じるでしょう。ただし、Steam掲示板にヒントを書いてくれている人がいるため、それを参考にすればそこまで難しくないはずです。このゲームはエンド2~4を見て、エンド1(true)に到達して初めて完成する作品です。面倒だからネタバレを見るというのもおすすめしません。

 私はマイクと何度も失敗しました。一つの出来事から得る感情は、受け取り手の数だけあります。しかし、そこにどれほどの隔たりがあろうとも、それを踏みにじるような行為をしてはなりません。すべてを終えた私は己を恥じました。こんな場末の記事を見ているような人がいるのなら、自分のバディを信頼し、愛してあげてほしいです。

 

 さて、少し話は変わりますが、このゲームをプレイしたことで英語の物語を読むことについて考える機会を得ました。まず、前提として英語と日本語は大きく異なるというのが、私の見解です。語順だとか、発音だとか、そういった違いもありますが、ここで言いたいのは、物語における解像度についてです。

 普段、私は機械のマニュアルやデータシートを読む際に、いちいち英語を日本語に訳すようなことはしません。例えば、appleはりんごですが、当然ながらappleappleでもあるため、すべての英語を訳すのは非常に無駄であると考えるからです。これは知った相手との会話やメールなどでも同じです。

 しかし、こと物語に至っては、私はそうすることができません。なぜなら、登場人物のIは私かもしれないし、僕であるかもしれない。同じように思える俺とオレでも別物なのです。口調についても、楽しいかな? 楽しいよね? 楽しいだろ? どれも受ける印象は異なると思います。ちなみにマイクの一人称はボクで、事あるごとに楽しいよね? と無邪気に語りかけてくれます。口調が個人を個人たらしめることはありませんが、口調は個人を構成する大切な要素の一つであると思います。ここで、受け取り手が日本語に訳することは、英語のまま読み進めるよりも、より解像度が高いのではないかと考えた訳です。これは英語に限った話ではなく、他の外国語についても同じです。日本語ほど自由な言語は私が知る限りではありません。小説などの創作物(特にライトノベルや恋愛アドベンチャーゲームが顕著)では、変な語頭語尾のキャラクターも数多くいます。もちろん、英語でもそういった表現はありますし、今回のゲームでもありましたが、そこまでバリエーションがあるわけではありません。文字のみのゲームでは声の調子もわかりませんから、日本語の方が具体的かつキャラクター間の差異を表現できるわけです。

 ここで勘違いしてはいけないのは、日本語が秀でているというわけではなく、ただ違いがある、というだけのことです。物語などを日本語に翻訳することで、上述した通り解像度は上がります。しかし、これは良くも悪くも翻訳者が個性を与えることになってしまいます。小説を例にとっても翻訳者によって印象が左右されることは珍しくないと思います。そのため、翻訳小説では誰々の翻訳が良くて誰々の翻訳は駄目だ、なんて意見も散見されます。原文で読むか、翻訳されたものを読むかでは、想像の余地、その境界が違うということです。具体的であれば多くの人とイメージを共有でき、抽象的であれば個人でキャラクター像を作り上げることができます。

 今回のゲームは後者ですが、上述したような要素がラストで効いてきたような気がする、ということが言いたいがために長々と書いてしまいました。プレイヤーの性別や年齢、過去の経験や価値観からバディは千差万別。けれど、彼ら彼女らはすべてが等しくプレイヤーに友情を求めるでしょう。繰り返しになりますが、大切にしてあげてください。

 ――さようなら、私のMycroft。

 

 

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